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世界が愛した浮世絵5選は?美人画で有名な人物は?

 

浮世絵は江戸時代に生まれヨーロッパをはじめ世界に広がりました。西洋の人は浮世絵を「包装紙」として持ち帰りましたが、やがてその美しさが欧米人の心を掴み日本の芸術品として世界の印象派芸術化にも影響を与えました。今回は浮世絵10選と美人画で有名な人物と歴史を紹介してみましょう。

 

浮世絵とは?その種類は?

 

浮世絵とは?

浮世絵とは、江戸時代に流行った版画絵のことです。

浮世絵には当時の風景などその時代の様々な風俗、人気のあった吉原の花魁〔おいらん〕や歌舞伎役者などが描かれています。

初期の頃の浮世絵の技術は単色刷りしかできなかったため色塗りには筆を使っていました。

1765年に鈴木春信らによって多色刷が考案され、極彩色の浮世絵が製作されるようになりました。

この多色刷り浮世絵を「錦絵(にしきえ)」と呼びます。

 

浮世絵の種類は?

浮世絵には元来、木版画、絵画(肉筆画)というものがあります。

絵画(肉筆画)は一点ものになるので、名のある絵師によるものは非常に高価なものでありました。

木版画は文字通り「版画」であるため、同じ絵柄のものを多く摺り上げることができ値段も安く複数の浮世絵を作ることができました。

これにより浮世絵は一気に世界に広がり、江戸時代の一般庶民も購入することができました。

 

 

浮世絵は眺め玩具?

大衆文化としての浮世絵版画は手に取って眺め愛玩されました。

当時の浮世絵は、現代のように額に入れて遠目に眺めるものではなかったといわれています。

たとえば浮世絵版画は草双紙や絵巻物、また瓦版(新聞)の挿絵に使われました。

また、絵暦と呼ばれるカレンダーの制作も行われ、絵の中に数字を隠すなど様々な工夫を凝らしたものが作られました。

当時浮世絵版画は江戸から国元への土産にも喜ばれたといいわれています。

 

浮世絵の特徴は?

江戸時代に流行った浮世絵ですが、実は素晴らしい技法が取り入れられています。

浮世絵ははっきりした図柄と大胆な構図、影の表現を持たないこと等が特徴で遠近法も取り入れられています。

北斎の『釣の名人』のように遠景の人物を逆に大きく描き意図的に遠近をずらされたものもあります。

浮世絵に描かれている風景や背景は、現在では変化・消失した名所、人々の生活や生業、文化などを伝える歴史資料としても活用されています。

 

ズバリ浮世絵画像5選!

 

葛飾北斎の有名な浮世絵「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」

 

喜多川歌麿の有名な浮世絵「寛政三美人」

 

歌川広重の有名な浮世絵「東海道五十三次 日本橋 朝之景」

 

東洲斎写楽の有名な浮世絵「三世大谷鬼次の奴江戸兵衛」

 

歌川国芳の有名な浮世絵「相馬の古内裏(そうまのふるだいり)」

 

 

 

美人画で有名な人物は?

 

鏑木清方 かぶらぎ・きよかた

(1878~1972)日本画家で本名は健一、戯作者条野採菊の長子として東京生まれです。

14歳のとき水野年方に入門しさし絵画家として名をあげましたが,1901年同志と烏合会を結成して本格的絵画に進み,翌年《一葉女史の墓》を発表しました。

平福百穂,結城素明らと作った金鈴社は日本画界に新風をまきおこしました。

江戸の情緒を現代風俗のなかに昇華した気品のある風俗画が大衆の人気を得ました。

1954年文化勲章を授章し、代表作には「築地明石町」、「三遊亭円朝像」などがあり「こしかたの記」等の随筆集としても有名です。

 

 

鳥居清信 とりい・きよのぶ

(1664-1729)鳥居派の祖と呼ばれています。

大坂の女形役者だった父・鳥居清元と共に江戸の難波町に移住しました。

「役者絵」を浮世絵版画の重要な画題として確立させたといわれています。

役者絵が圧倒的に多いが、美人画、武者絵もすばらしいことで有名です。

清信の創始した鳥居派は、役者の絵看板や芝居番付などを家業としており、 江戸の歌舞伎界との結びつきを堅持し、300年世襲され、現在まで続いています。

 

菱川師宣 ひしかわ・もろのぶ

(1618-1694)浮世絵の祖としてあまりにも有名です。

生家は安房国保田の縫箔師でした。

染織の下絵を描いて絵に親しみ、上方の版本や挿絵をはじめ、狩野派、土佐派、長谷川派などの既成様式を独習し、画技を磨いたといわれています。

菱川は一枚摺の組物制作し、生前から浮世絵の祖と称されたほどです。

肉筆画だけでなく、絵本、挿絵の下絵を描き出版されたため、広く上方まで知られました。

子の師房や門人の古山師重らによる工房を主催し、作品を量産したが、師宣の没後、やがて工房は衰退しました。

 

 

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は世界が愛した浮世絵5選は?美人画で有名な人物は?について触れてみました。日本の絵は江戸時代の前から世界で高い評価を受けていたようですね。

武士と浪人との違いとは?その身分は?

 

歴史の時間に教科書を通じて習ったこれらの言葉ですがその理解されている方は少ないのではないでしょうか。今回は「武士」、「浪人」の意味とその違いについてまた、その身分や階級について考えてみましょう。

武士と浪人の違いは?

 

武士とは?浪人とは?

natanvance / Pixabay

武士とは武芸をおさめて主君に仕え、戦(現代でいう軍事)にたずさわった者のことをさし、武者、兵(つわもの)とも呼びます。

武士は支配階級となりますが上級武士から下級武士まで様々な身分があり領地によっても地位が変わったりしたといわれます。

浪人とは仕える主君を持たず、自分の生まれ育った領地を離れ流浪する者をさします。

現代社会にあてはめると、武士は企業や組織に属する社員で役職によっては大勢の部下をもつようなイメージです。

一方、浪人とは会社倒産やリストラなど何らかの理由で企業や組織に属さないいわばフリーランス、若しくはニートといった感じではないでしょうか。

 

武士にも階層が分かれていた

支配階級であった武士にも細かく階層が分かれており、厳密にいえば上級武士、中級武士、下級武士に分かれていたといわれます。

武士の階級を整理してみると、侍(さむらい)、徒士(かち)、足軽(あしがる)といった順番です。

侍のみが上級武士と呼ばれ、最も上位に位置する武士でありました。

藩によって多少異なりますが侍は全体の20パーセント程度であったとされています。

侍は馬に乗ることが許されており、逆の言い方をすれば侍以外の武士には騎乗資格はありませんでした。

次に、徒士ですが、武士ではあるものの騎乗が許されない身分でした。

徒士がいわば中級武士にあてはまるのではないでしょうか。

最後に足軽は下級武士で、当然騎乗が許される身分ではなく主君へのお目見えも許されませんでした。

 

浪人になる経緯・理由は?

 

浪人・浪士いずれもニート?

浪人と似たことばで浪士がありますが、浪人とはどちらかといえば「失業者」という意味合いが強いのではないでしょうか。

浪士は自らの意志で主家を退く、または大きな事を成し遂げようとする意志があるものという意味合いがあります。

 

 

 

 

いずれにしてもヘタウチで浪人になる?

浪人となる経緯や理由は様々でした。

本人が罪を犯したり本人に落ち度があり責任を取って士官先を辞め浪人になるケースがあります。

また、主家が潰れたり跡目が居ないため御家断絶など当の本人にはどうすることもできない理由などがありました。

 

 

人員削減で浪人になるケースも

江戸中期になると財政難のため多くの藩で人員削減が行われ、これによる生活苦などから浪人になる者が増えました。

現代の日本でも起こっている企業倒産や業績不振によるリストラにより職を失うサラリーマンのようなものではないでしょうか。

 

 

江戸の町には身だしなみの規制があった!?

 

江戸時代、浪人は取り締まりの対象?

幕府の大名廃絶製作によって「牢人」は増え続け徳川三代将軍の時代にはその数50万人に達したとの記述があります。

また各地で労働力が不足していたことを背景に、武士の身分を捨て町人や百姓になる者もいました。

幕府は大阪の陣や島原の乱に「牢人」が大量に加わったことを理由に、警戒し町中から追放したり居住の制限をするなど厳しい製作をとりました。

この結果「牢人」たちの生活はますます追い詰められ、とうとう幕府転覆計画を引き起こすことになります。

この頃より流浪の「牢人」や未士官の「牢人」を浪人と呼ぶようになったとされます。

浪人は常に不穏分子として監視対象にされ、町中で住むためには旧主君、親類や知人などに身元保証をしてもらい町の顔役と町を管轄する役所から手形という「証明書」をもらう必要がありました。

前に書きましたが浪人は「牢人」と呼ばれたほどで、基本的には追い払いの対象となりました。見知らぬ浪人が江戸の町中に入ってくると宿無しものとしてみなされ取り締まりの対象となったといれ、場合によっては僻地に労働力として送られたそうです。

江戸時代、江戸の町は身だしなみが重要視され細かい身だしなみについて規制されていました。

 

みだれ髪の浪人は映画やテレビだけ

時代劇によく出てくる浪人はみだれ(ボサボサ)髪のようなイメージですが、実際はこのようなヘアースタイルでは江戸の町中を歩くことが出来なかったそうです。

そうです江戸では武士も町人も月代を伸ばして外出することはできず、ましてや浪人がボサボサ髪で江戸の町中を闊歩するなんてまさに捕まえてくれといわんばかりの髪型で絶対にありえない話です。

江戸時代のみだしなみについて、ついでに付け加えると。武士が手ぬぐいを懐に入れたときは何人たりとも道を譲るという決まりがありました。

懐に手ぬぐいを入れるということは、公の仕事をしているという目印であったので全てが優先されました。

武士や町人が帯に扇子をさしていましたが、暑い日に煽ぐためではなくこれも身だしなみの一つでした。

外出時には帯にさし、部屋の中では帯から抜いて手目に持つのが礼儀で、座敷では前方に置くのが決まりでした。

暑い日に顔を煽ぐにしても扇子をほんの少しだけ開いて目立たないように煽いだといわれています。

このように江戸の町は髪型だけではなく様々な身だしなみに対する決まり事があったようです。

 

浪人は武士としての身分は低い?

 

 

江戸時代の浪人の身分は?

江戸時代の浪人は武士としての身分を失っていましたが、苗字帯刀は許されていました。

前に説明しましたが、浪人の日常生活は町人と同じく町奉行により監視されており、日々の生活自体も苦しくその日暮らしを余儀なくされたため、自暴自棄になり犯罪に走った者もいました。

しかし中には商人として出世した者や文芸の世界で成功した者、町道場を開き武芸の道で生計を立てるもの、寺子屋の師匠となり教育関係で活躍する者もいました。

 

宮本武蔵は生活に余裕があった?

宮本武蔵は多数の弟子を抱えた道場主であり後世に書画を残すほど生活に余裕があったとされています。

 

 

特異な例として山田浅右衛門

山田浅右衛門はれっきとした幕府の役目を負う立場でありながら牢人の身分でした。

幕末になると浪人は政治運動にも積極的に参加したとされています。

 

 

 

 

 

坂本龍馬は自ら浪人になった?

坂本龍馬は何かと制約の多い土佐藩から自ら脱藩し浪人となり、自由な立場でのちに活躍しました。

一方で、町人や百姓などの武士でない身分でありながら勝手に苗字帯刀をして浪人を名乗る者もあらわれました。

 

 

 

 

 

新選組は町人や百姓出身者?

その例として「新撰組」がありますが、構成員の多くが町人や百姓などの出身者でありました。

浪人という身分は日本が明治維新を迎え、四民平等の政策がとられると次第に消滅していきました。

 

 

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は「武士と浪人との違いとは?その身分は?」についてまとめてみました。

武士とは支配階級で、諸藩の殿様に仕えている武士のことで殿様から収入をもらっており、浪人とは諸藩の殿様から解雇された元武士のことをさし、身分は低く常に町奉行の監視対象になっていたことや浪人の大半がその日暮らしの苦しい生活をしていたことがわかりました。

私たちが時代劇で見る「浪人」のイメージとはややかけ離れているのではないかと感じたりしますね。

世界も感動した武士道精神とは?

 

武士道は江戸時代に支配階級である武士に文武両道の鍛錬を徹底させたことから始まります。今回は武士道精神の意味と海外での反応、現代の日本に伝わる7つの徳目を考えてみましょう。

 

 

世界も注目する「武士道」とは?

 

海外の人から「武士道とは何?」と聞かれた時、貴方はどのように答えますか。

また正確に答えられますか。

武士道とは武士の行動原理でもあり、武士のあり方を追及するための思想と考えますが、具体的ではなく明確でもありません。

 

武士道は一言で語れるものではなく、武士が規範とする行動や発言が時代によって違いがあるので説明するには非常に難しいのではないでしょうか。

5千円札で有名な新渡戸稲造さんは海外に留学していた頃、周りのひとから宗教教育のない日本に道徳観念があるのはなぜなのかとよく質問を受けたとのことです。

新渡戸さんの答えは「日本の道徳や正義を形成しているのは「武士道」です。

新渡戸さんは武士道を

一言で言うと「武士の掟」すなわち「高き身分の者に伴う義務」と述べておられます。

武士は戦い事を主に専門としますが、武士が世の中や社会の中心となって好きなようにされては世の中が成り立ちません。

長年にわたる日本の歴史の中で武士の間でもフェアプレイの精神が求められるようになりました。

このようにして武士の生活の中に武士道という崇高な精神が生まれました。

武士道は仏教、神道、儒教の影響を受けそれらをうまく取り入れた精神です。

 

 

 

英文で書かれた「武士道」に世界が感動した!

 

1891年に新渡戸稲造は「武士道(BUSHIDO;The Soul of Japan)」を体調を崩しながらも英文で書き上げます。

新渡戸稲造と聞くと「5000円札の人」と連想する人が多いと思いますが、「武士道」を英語で紹介したご本人です。

では渡戸稲造とはどんな人だったのでしょう?

1962年、岩手県盛岡市に生まれ、農学を学ぶために札幌農学校(現・北海道大学)に入学します。

札幌農学校とは「少年よ、大志を抱け」で有名なあのクラーク博士が初代教頭を務めたエリート校です。

新渡戸さんはここの影響で西洋のことについて多く学び影響を受けることになりました。

同校卒業後、新渡戸さんは帝国大学(現・東京大学)の入試を受けた際に「われ、太平洋の架け橋にならん」という有名な言葉を残し、のちにアメリカ、ドイツへと留学のために向かうことになります。

「武士道」はなぜ書かれたかというと、新渡戸さんが留学先でベルギーの法学者に「日本の学校では宗教教育がないのですか?」と聞かれ、即座に「はい、ありません。」と答えます。

そうするとベルギーの法学者は「宗教教育がない?日本はどうやって道徳教育をするのですか?」と返します。

この質問に新渡戸さんは考えた末、日本人の心の中にある善悪の観念、正義を形成しているベースが「武士道」であることに気が付きます。

また、妻のメアリーさんからもたびたび日本にこのような思想や道徳教育がいきわたっているのかを聞かれ外国の人に日本の精神を教える、という趣旨から英文で「武士道」を書く決意をしたとのことです。

英文の「武士道」は1900年にアメリカで出版されるや否やたちまち話題と反響を呼び、フランス語やスペイン語をはじめ各国の言語に訳され「武士道」は一気に世界中に広まったといわれています。

 

武士道の7つの徳とは?

 

 

武士道には 義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義 これら7つの徳が挙げられます。

徳とは人間の優れた精神性のことを指し、五常を説く儒教の影響から来ています。

 

 

「義」

人間として正しい道、正義を意味するものであり武士道の掟の中で最も重要視されていました。

 

「勇」

義を貫くための勇気のことを指しますが、勇気といってもわざと危険を冒し犬死するのではなく、自分が信じることに対してはためらうことなく命をかけ戦うのが武士の精神です。

 

「仁」

人としての思いやり、他者への憐みの心のことを意味します。

 

「礼」

仁の精神を育て他者を尊重することから生まれる謙虚さ、優しさを意味します。

 

「誠」

言ったことを実行すること。

 

「名誉」

名を尊び自分に恥じない高潔な生き方を貫くことを意味します。

 

「忠義」

主君に対して絶対的に従順することを意味します。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は武士道と武士道の精神について考えてみました。

武士道の7つの徳はどの時代にも通じる高貴な精神ではないでしょうか。