昭和時代を知る人にはもう説明の必要は有りませんね。
今回はピンクレディーについて紹介します。
ピンクレディー (Pink Lady) は、1970年代の後半から1980年の初頭にかけて活躍した二人組のアイドル歌手です。
ピンクレディー誕生まで
中学時代
1971年、中学2年生の時にケイがミーの在学する中学校に転校、演劇部に入ったことで2人が知り合います。
1973年に、2人はヤマハ音楽が主催するオーディションにそれぞれ合格し、授業料免除の特待生になります。
ヤマハボーカルスクールの講師の勧めで、フォーク系ソングのデュオを結成し二人で歌手になることを誓いました。
デビューのきっかけになったのは、萩本欽一司会進行のあの伝説の番組「スター誕生」です。
ピンク・レディー IN 夜のヒットスタジオ~フジテレビ秘蔵映像集~ [ ピンク・レディー ]スター誕生
1976年3月14日に、二人おそろいのサロペットの素朴な雰囲気で登場し当時ほとんど無名に近かったピーマンというフォークグループの「部屋を出て下さい」を唄う事で逆に注目され、合格することになりました。
1976年8月、ピンクレディーはレコードデビューしたが、これは『スター誕生!』からわずか半年後のスピードデビューでした。
スター誕生の素朴なイメージとは真逆で手足を露出したキラキラ光る生地のミニの衣装と、リズムやビートを強調した曲調によって、田園風景が似合う素朴な二人組が派手な歌謡デュオになりました。
都倉俊一が命名?
ピンクレディーと命名したのは、作曲家都倉俊一氏で、カクテルの名前である「ピンクレデイー」を連想して名付けたと言われています。
ピンクレディーはデビュー当時、超ミニの派手な衣装で太ももを開いたりするダンスをするため深夜番組の出演が多かったのですが、やがてその振り付けを子供たちが熱心に真似をしたのをきっかけに幅広い年代層のファンが増えてきました。
レコードが大ヒットするにつれ、その人気が急上昇し衣料品や文房具、食器、自転車や食品まで多くの商品に二人の姿がプリントされ巨額の経済効果を派生させることになりました。
一気にスターダムへ
ミリオンセラー連発
1976年ピンク・レディーのデビュー・シングル「ペッパー警部」(1976年8月)は売上60万枚、翌1977年に掛けてロングヒットを続けました。
第2弾シングル「S.O.S」(1976年11月)と第3弾シングルの「カルメン’77」(1977年3月)もオリコン1位を記録する大ヒットを記録しました。
1977年そして、第4弾シングルの「渚のシンドバッド」(1977年6月)は、ピンクレディー初のオリコン調べでのミリオンセラーとなった記念すべき曲となりました。
ピンクレディーが社会現象に
実際、この曲によって、ピンクレディーの人気は「社会現象」となり、日本列島にピンクレディー旋風が吹き荒れました。
以降、発売するシングルはヒットを連発しますが、オリコンで連続9曲1位・10曲連続ミリオンセラー(出荷ベース)は、オリコンシングルチャートにおける通算首位獲得数(63週)は、2015年1月26日付に、B’zが「有頂天」で記録更新するまで最高記録でした。
ピンク・レディーの人気絶頂期は、1977年から1978年までの2年間にわたって続きました。
紅白辞退で人気に陰りが
人気が絶頂の1978年、ピンクレディーは「紅白歌合戦」への出場を敢えて辞退することになりました。
紅白辞退の理由は、チャリティー番組「ピンクレディー汗と涙の大晦日150分」という裏番組に出演することでした。
しかし結果は「紅白歌合戦」の視聴率72.2%に対して、その裏番組は8.2%の視聴率という惨憺たる結果となりました。
これを境に、ピンクレディーは「ジパング」、「ピンク・タイフーン」や「波乗りパイレーツ」を発売するがかろうじてオリコン10位圏内という結果になりました。
時代の移り変わりか
新たなアイドル到来
この頃にはすでにミーハー路線が飽きられ、松田聖子など新しいアイドル時代の到来したのと、「紅白出場辞退」によりピンクレディーはマスコミから激しいバッシングを受けることになりました。
この頃のアイドルといえば、松田聖子を筆頭に河合奈保子や柏原芳恵、さらに三原じゅん子などが代表として挙げることができます。
更に追い打ちをかけるようにこの頃は事務所とのトラブルや恋愛トラブルなどが相まって2人の人気は急落しました。
アメリカに活路を求める
以前から進められていたピンクレディーの「アメリカで進出」は順調で、全米デビューシングルとなった「キス・イン・ザ・ダーク」がビルボードで総合37位となりました。
テレビでは全米三大ネットワークの一つNBCのゴールデンタイムで、自らの名前を冠する番組を持ち全米ニピンクレディーの名が知れ渡りました。
しかし、アメリカでの契約を更新することが無いまま帰国することとなり、再び日本に戻りましたが往時の勢いを取り戻すことは全くできませんんでした。
解散までのカウントダウン
そして1980年9月1日にピンク・レディーは二人揃って解散を発表することになります。
7か月後の1981年の3月31日に冷たい雨が降り続く悪天候の中、後楽園球場で解散コンサートを行いました。
コンサートは空席が目立ったスタンドに象徴されるように絶頂期の面影はほとんど無く、何かと比較されたキャンディーズの解散コンサート(1978年4月)が超満員だったのと比べると、あまりにも寂し過ぎるものでありました。
ピンクレディーの解散コンサート観客動員数は主催者発表で3万人、消防署関係者の証言では1万5000人程度であったと言われています。
活動期間は4年7ヶ月ピンクレディーが稼ぎ出したのは500億円とも言われていますが、当時の事務所の経営者にも事務所側にもほとんどお金が残らなかったと伝えられています。
再結成
ピンクレディーは1981年3月31日の解散コンサートにより、解散となりましたが、その後幾度となく再結成を果たしています。
- 1984年 – 1度目の再結成。
- 1989年 – 2度目の再結成。
- 1996年 – 3度目の再結成。
- 2003年 – 4度目の再結成。
- 2010年 – 5度目の再結成。
2010年9月にピンクレディーは「解散やめ!」宣言をし、それ以降はミーとケイはそれぞれ多方面での活躍をされています。
2017年12月30日、TBSの「第59回日本レコード大賞」に39年ぶりに特別ゲストとして出演し、 翌2018年12月30日、「第60回日本レコード大賞」では「UFO」「S・O・S」「渚のシンドバッド」「サウスポー」の4曲ノンストップメドレーを歌いました。
まとめ
いかがでしたか。
今回はピンクレディーについて触れました。
昭和時代を知る人にとっては、忘れられない名前、ピンクレディー。
ピンクレディーが遺した数々の記録や社会に与えた影響などは凄いですね。
今後もミーさんとケイさん、いやピンクレディーの活躍に注目したいですね。
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